「相続対策をそろそろ——と思っていた矢先に、親の物忘れが増えてきた」。この順番になると、対策の前に手が止まります。
結論から言うと、判断能力を失った後は、贈与も売却も修繕も、そして相続対策そのものもできなくなります。これを「資産凍結」と呼びます。凍結してからでは打ち手が狭いので、備えは「元気なうち」にしかできません。
※本記事の人物・金額はすべて架空のモデル事例です。一般的な仕組みを解説するもので、個別の税務・法務相談ではありません。成年後見・任意後見・家族信託などの組成は、提携の司法書士・弁護士と進めます。
→ 相続対策の全体像は 相続対策の進め方(12工程)。この記事は工程6「認知症・判断能力に備える」です。生前対策(工程4・5)を実行する前提となる、いちばん足元の話です。
この記事でわかること
- 判断能力を失うと何が止まるのか(預金・不動産・贈与・遺言)
- 「相続」と違い、認知症では財産が本人のまま何年も凍結すること
- 成年後見(法定後見)がついても、相続対策は再開しにくい理由
- 元気なうちにできる備えの選択肢(任意後見・家族信託・生前贈与)
- 大事な線引き——「認知症対策=節税」ではない
1. 判断能力を失うと、資産は「凍結」する
人が契約や手続きをするには、その意味を理解できる判断能力(意思能力)が要ります。認知症が進んでこれを欠くと、本人がした法律行為は無効とされ(根拠:LS-10 認知症と資産凍結/民法3条の2)、後見が開始した後は取り消せるものになります(民法9条)。
実務では、金融機関や不動産会社が窓口で本人の意思を確認できなくなった時点で止まります。賃貸経営や相続対策に引き直すと、こうなります。
| やりたいこと | 判断能力を失った後 |
|---|---|
| 年金・家賃などの入金 | 止まらない(自動で入ってくる) |
| 本人名義の預金引き出し・定期の解約 | 止まる(意思確認できないと窓口で拒否) |
| 不動産の売却・大規模修繕・建て替え | 止まる |
| 生前贈与(子・孫へ財産を移す) | 止まる |
| 遺言の作成・書き換え | 止まる |
| 賃貸借契約の締結・更新 | 止まる(正確には取り消しうる) |
入金は止まらないので、問題が表面化しにくいのが厄介です。気づくのは、たいてい「まとまった修繕をしたい」「実家を売って施設費用に充てたい」というタイミング。そのときにはもう、本人名義の資産は動かせません。
そしてもう一つ。亡くなれば相続が起きて財産は動きますが、認知症になっただけでは相続は起きません。財産は本人のものであり続け、凍結が何年も続くことがあります。この間、相続対策(贈与・組み替え・遺言)はいっさい進められません。
2. 成年後見(法定後見)でも、対策は再開しにくい
「後見人をつければ動かせるのでは」と考えたくなりますが、そう単純ではありません。
判断能力を失った後に選べるのは法定後見です。家庭裁判所が後見人を選び、以後は家庭裁判所の監督下に入ります。後見人には本人の財産を管理・代理する権限がありますが、その使い方には枠があります。制度の目的が「本人の財産の保全(本人の保護)」であって、財産を増やすことや相続人のために備えることではないからです(根拠:LS-10/民法858条=本人の意思の尊重・身上配慮)。
そのため、後見人は次のような判断を通しにくくなります。
- 相続税対策のための生前贈与——本人の財産が減る行為
- 収益物件の売却や、更地にアパートを建てる等の積極的な資産の組み替え——本人にリスクを負わせる行為
- 「相続税が下がるから」という理由——それは本人ではなく相続人の利益
さらに、本人の居住用不動産(自宅)を売る・貸す・抵当に入れるには、後見人でも家庭裁判所の許可が要ります(民法859条の3)。「自宅を売って納税資金に」という典型的な相続対策が、ここで止まります。
加えて、専門職(司法書士・弁護士など)が後見人に選ばれると、その報酬が継続的にかかります。金額は管理する財産の額などに応じて家庭裁判所が決めます(月額の目安は財産規模により変わります)。後見はいったん始めると、本人が回復しない限り原則として続きます。
つまり、凍結してから法定後見に頼っても、「守り」はできても「攻め」の相続対策は戻ってきません。だからこそ、元気なうちの備えが要ります。
3. 元気なうちにできる備え(概要)
備えの中心は、次の考え方です。「判断能力があるうちに、決めておく・済ませておく・託しておく」。
| 備え | いつ決めるか | 特徴(概要) |
|---|---|---|
| 生前贈与・生命保険・遺言 | 元気なうち | 判断能力があるうちに済ませる。工程4・5と重なる |
| 任意後見 | 元気なうち | 判断能力が落ちたときの後見人を自分で選んでおく(公正証書で契約) |
| 家族信託(民事信託) | 元気なうち | 財産の管理・処分を家族に託す。目的を契約で決められる |
| 成年後見(法定後見) | 判断能力を失った後 | 家裁の監督下で本人の財産保全が原則 |
- 任意後見は、元気なうちに「もし判断能力が落ちたら、この人に任せる」と決めておく契約です。法務省令の様式による公正証書で結ぶ必要があります(任意後見契約に関する法律3条)。後見人を自分で選べるのが法定後見との違いですが、監督人がつくため、積極的な財産運用まで自由にできるわけではありません。
- 家族信託(民事信託)は、親が財産の管理・処分の権限を子などに移し、利益(家賃など)は親が受け取る仕組みです。「収益不動産の管理・売却・建て替えを行う」と目的を契約に書いておけば、凍結を避けて回せるとされます。柔軟な反面、組成には公正証書の作成や不動産の信託登記などの初期費用がかかります。詳しくは → 家族信託で凍結を防ぐ
- 生前贈与・遺言は、判断能力があるうちにしか実行できません。贈与は早く始めるほど効きます(生前贈与加算の7年ルールとの関係)→ 生前贈与加算が7年になった(令和6年〜)(工程4)。遺言は形式で効力が変わります → 自筆証書遺言と公正証書遺言
どれを選ぶかは、財産の中身・家族構成・かけられる費用で変わります。3つの制度の違い(財産管理と身上監護・コスト・自由度)は比較表で整理しました。→ 成年後見/任意後見/家族信託の使い分け
4. 大事な線引き——「認知症対策=節税」ではない
最後に、誤解しやすい点を1つ。
認知症への備え(凍結の回避)と、相続税の節税は、別の問題です。家族信託を組んでも、それ自体で相続税が下がるわけではありません。信託は「財産を凍結させずに管理・承継する」ための器であって、節税の道具ではないのです。「信託にすれば税金が安くなる」という期待には、注意が必要です。
順序としては、まず凍結を防いで「対策できる状態」を保つ。そのうえで、贈与・保険・評価減といった節税の打ち手(工程4・5)を、判断能力があるうちに実行する。この2段構えで考えるのが安全です。
なお、税務の判断は当事務所で行いますが、任意後見や家族信託の組成、後見の申立てといった手続きは、法務(司法書士・弁護士)の領域です。当事務所では、税務の見立てと合わせて、提携の専門家と連携して進めます。断定的な法律判断は、必ず専門家の確認を取ってください。
まとめ
- 判断能力を失うと、預金の引き出し・不動産の売却や修繕・生前贈与・遺言・賃貸借契約が本人単独ではできなくなる(=資産凍結)
- 認知症では相続は起きないため、財産が本人のまま何年も凍結し、その間は相続対策そのものが止まる
- 成年後見(法定後見)は「本人の財産保全」が原則。相続税対策の贈与や積極的な組み替えは基本的に通らず、居住用不動産の処分には家裁の許可が要る。専門職後見人の報酬が継続することもある
- 備えは元気なうちにしかできない。選択肢は任意後見・家族信託・生前贈与/生命保険/遺言
- 「認知症対策=節税」ではない。凍結回避と節税は別問題。過度な期待は禁物
- 税務は当事務所、組成・手続きは提携の司法書士・弁護士へ
次に読む:家族信託で凍結を防ぐ/成年後見・任意後見・家族信託の比較/自筆証書遺言と公正証書遺言/生前贈与加算が7年になった(工程4)
出典
- 民法(明治29年法律第89号)3条の2(意思能力)、9条(成年被後見人の法律行為)、858条(成年被後見人の意思の尊重及び身上の配慮)、859条の3(居住用不動産の処分についての許可)
- 任意後見契約に関する法律(平成11年法律第150号)3条(公正証書による契約)
- 信託法(平成18年法律第108号)3条(信託の方法)
- e-Gov法令検索(確認日:2026年7月24日)
※本記事は一般的な仕組みの解説です。成年後見・任意後見・家族信託の適否や具体的な設計・費用・手続きは、家族構成と財産の内容によって変わり、法務(司法書士・弁護士)の領域を含みます。実行前に、税務は当事務所、組成は提携の専門家にご確認ください。
